さば 雲

友がひとりまた一人消えて思い出だけ残る。過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

ヒガンバナ Ⅲ

 秋桜、彼岸花、蝶、 …

  水彩+ 色鉛筆  21.5ⅹ 27.5 cm


 転生をくりかえしてゆかねばならぬ魂はまだ迷える哀れな魂なのでありましょうけれど、輪廻転生の教えほど豊かな夢を織りこんだおとぎばなしはこの世にないと私には思われます。


 昔の聖者達にいたしましても、近頃の心理学者達にいたしましても、人間の霊魂のことを考えました人達は、たいてい人間の魂ばかりを尊んで、ほかの動物や植物をさげすんでおります。人間は何千年もかかって、人間と自然界の万物とをいろいろな意味で区別しようとする方へばかり、盲滅法に歩いて来たのであります。


……けれども科学者は物質を造るもとともいうべきものを細かくたずねてゆけばゆくほど、そのものは万物の間を流転すると知らねばならなくなったではありませんか。


 魂という言葉は天地万物を流れる力の一つの形容詞に過ぎないのではありますまいか。


      ☆川端康成「抒情歌」より

ヒガンバナ Ⅱ

 彼岸花の群(イメージ)

 水彩+ 色鉛筆   22 x 27.5 cm


朝がくると
わたしとそよ風は手をたずさえて
光来たれり、と宣言する。
夕には鳥たちと私は光に別れを告げる。


わたしは野の上にゆれ動き
その飾りとなる。
わたしの香りを大気にただよわせ、
夜のあまたの眼はわたしをじっと見守る。
わたしは梅雨に酔いしれ
つぐみの歌に耳を傾ける。
叫ぶ草たちのリズムにあわせて踊り、
光を見るために天を仰ぐけれど、
それは自分の像(イメジ)をそこに見るためではない。
この知恵を人間はまだ学んでいない。


 ※「花のうた」抜粋
☆神谷美恵子「ハーリル・ジブラーンの歌」より

ヒガンバナ

 彼岸花の思い出(イメージ)

 水彩+ 色鉛筆    24 x 19 cm


 世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもせん
(世の中のことを思うとすべて散る花である。ほかならぬこのわが身もそうなのだが、それにしてもわが身はいったいどこへ行くのであろうか)


 行方なく月に心の澄み澄みて 果てはいかにかならんとす
(月を見ていると私の心は澄みに澄む。このままどこまで澄んでいくのだろ。私は一体どうなってしまうのだろうか)


 ☆西 行(1118~90)歌人


 この世に楽しくあらば来む世には 虫に鳥にも我はなりなむ
(この世が楽しいことであれば、来世、虫になろうが鳥になろうがかまいはしない)


 ☆大伴旅人(665~731)歌人


◇竹内整一「 ありてなければ 無常の日本精神史」から

スクラップ Ⅲ

 捨てられた自転車

  透明水彩+ 色鉛筆+ アクリル  21.5x 31.7 cm


 会うたびに出る定番の話題があります。渥美さんがこう切り出すのが始まり。
「療養所というところは寂しいねぇ」
たとえば御主人が入所する。奥さんが毎日のように面会に通ってくる。「おれがこんなになってからは、おまえさんが働きに出ているわけだし、家のこともあるし、毎日、見舞いに来なくてもいいんだよ。だいたいおまえさんの体が保たないだろう」
そんなことを云いながらも御主人は嬉しそうにしている。ところがそのうちに、面会が二日に一度、週に一度、月に一度というふうにだんだん間遠になる。御主人は周囲に、
「うちの奴、ちょいとした仕事を任されて、忙しくやっているらしいんですよ」
と陽気に振舞っているが、ふとうつむいた顔に力がない。やがて奥さんがふっつり姿を現さなくなる。そして、奥さんが他の男と連れ立って映画を観ていたという噂……。
「なにが寂しいといって、あれほど寂しい風景はないねぇ」
 わたしも一時期、療養所で働いていましたから、同じような風景を何度も目にしてきました。ですから渥美さんの云う意味がよく分かる。話を聞くたびに、この人は地獄を見てきたなと思ったものです。あの人の人生にたいする思い切り方は、ひょっとしたらこういった風景が元になっているのかもしれませんね。(渥美清とフランス座)


 ★井上ひさしベストエッセイ続 ひと・ヒト・人より