さば 雲

友がひとりまた一人消えて思い出だけ残る。過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

スクラップ Ⅲ

 捨てられた自転車

  透明水彩+ 色鉛筆+ アクリル  21.5x 31.7 cm


 会うたびに出る定番の話題があります。渥美さんがこう切り出すのが始まり。
「療養所というところは寂しいねぇ」
たとえば御主人が入所する。奥さんが毎日のように面会に通ってくる。「おれがこんなになってからは、おまえさんが働きに出ているわけだし、家のこともあるし、毎日、見舞いに来なくてもいいんだよ。だいたいおまえさんの体が保たないだろう」
そんなことを云いながらも御主人は嬉しそうにしている。ところがそのうちに、面会が二日に一度、週に一度、月に一度というふうにだんだん間遠になる。御主人は周囲に、
「うちの奴、ちょいとした仕事を任されて、忙しくやっているらしいんですよ」
と陽気に振舞っているが、ふとうつむいた顔に力がない。やがて奥さんがふっつり姿を現さなくなる。そして、奥さんが他の男と連れ立って映画を観ていたという噂……。
「なにが寂しいといって、あれほど寂しい風景はないねぇ」
 わたしも一時期、療養所で働いていましたから、同じような風景を何度も目にしてきました。ですから渥美さんの云う意味がよく分かる。話を聞くたびに、この人は地獄を見てきたなと思ったものです。あの人の人生にたいする思い切り方は、ひょっとしたらこういった風景が元になっているのかもしれませんね。(渥美清とフランス座)


 ★井上ひさしベストエッセイ続 ひと・ヒト・人より