さば 雲

友がひとりまた一人消えて思い出だけ残る。過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

ながい道

 マンゴー(宮古の思い出)

 色鉛筆  A4 2003年作(宣伝チラシ下書)


 「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考える人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである(サンテグジュペリ)」
 人生のいくつかの場面で、途方に暮れて立ちつくしたとき、私を支えつづけてくれた。いや、もうすこしごまかしてもいいようなときに、この文章のために、他人には余計と見えた苦労をしたこともあったかもしれない。 自分にとっては人間とその運命にこだわりつづけることが、文学にも行動にも安全な中心をもたらすひとつの手段であるらしいと理解するまで、ずいぶん道が長かった。


 「神に呼ばれる」とか「神だけにみちびかれて生きる」というような表現は、キリスト教の伝統のなかではごく日常的に用いられるもので、私がカテリーナの伝記を読んだころ、カトリック教会では一方的に「修道女として生きる」という意味に解釈されていた。でも、カテリーナは修道院には入らない。髪を切りはしたけれど、彼女は、学問をおさめ、政治にまで関与した。
「神だけにみちびかれて生きる」というのは、もしかしたら、自分がそのために生まれてきたと思える生き方を、他をかえりみないで、徹底的に追求するということではないか。私は、カテリーナのように激しく生きたかった。


 ★須賀敦子著「遠い朝の本たち」より