さば 雲

友がひとりまた一人消えて思い出だけ残る。過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

母の入院

 萎れた花

 鉛筆  1986年作


 半年ほど前、母の心臓の調子よくないことがあった。発作性頻脈といって、一時的に脈拍が二百を越すのである。直接生命に別状ないというものの、本人もまわりも不安になり検査入院ということになった。この大晦日で満七十歳になる母は息災な人で、お産以外は寝込んだことがない。入院は生まれて初めての体験である。一カ月ほどで退院出来るから心配ないといってきかせたのだが、死出の旅路にでかける覚悟で出かけたらしかった。
 入院して二,三日は、まるでお祭り騒ぎであった。夜になると十円玉のありったけを握って廊下の公衆電話から今日一日の報告をするのである。
 三度三度の食事の心配をしないで暮らすのがいかに極楽であるか。献立がいかに老人の好みと栄養を考えて作られているか。看護婦さんがいかに行き届いてやさしいか。テレビのレポーターも顔負けの生き生きとした報告であった。無理をして自分を励ましているところがあった。
 三日目あたりから、報告は急激に威勢が悪く、時間も短くなってきた。四日目からはその電話もなくなった。
 追い込みにかかっていた仕事に区切りをつけ、私が一週間目に見舞った時、母はひとまわりも小さくなった顔で、ベットに座っていた。この日は、よそにかたづいている妹もまじえて姉弟四人の顔が揃ったのだが、辛いのは帰りぎわであった。
 私が弟の腕時計に目を走らせ、
「ではそろそろ」
いおうかなとためらっていると、一瞬早く母が先手を打つのである。
「さあ、お母さんも横にならなくちゃ」
 晴れやかな声でいうと思い切りよく立ち上がり、お見舞いにもらった花や果物の分配を始める。押し問答の末、結局私達は持ってきた見舞いの包みより大きい戦利品を持たされて追っ払われるのである。 
「見舞いの来ない患者もいるのに、こうやってぞろぞろ来られたんじゃお母さんきまりが悪いから当分はこないでおくれ」
 と演説をしながら、一番小さな母が四人の先頭に立って廊下を歩いてゆく。
「本当にもうこないでくれよ」
 くどいほど念を押しエレベーターに私達を押し込むと、ドアのしまりまぎわに、
「有難うございました」
今までのぞんざいな口調とは別人のように改まって、デパートの一階にいるエレベーターガールさながらの深々としたお辞儀をするのである。
 ストレッチャーをのせる病院の大型エレベーターは両方からドアがしまる。寝巻の上に妹の手編みの挽茶色の肩掛けをかけて、白くなった頭を下げる母の姿は、更にもう一回り小さく見えた。
 四人の姉弟は黙って七階から一階までおりていった。弟がくぐもった声で、ポツンと言った。
「たまンねえな」
末の妹が、
「いつもこうなのよ」
 という。妹は毎日世話に通い、弟は三日に一度ずつのぞいているが、母は必ずエレベーターまで送ってきて、こうやって頭を下げる。しかも弟にいわせると、「人数によって角度が違う」というのである。
「今日は全員揃っていたから一番丁寧だったよ」
お母さんらしいやと私達は大笑いしながら、涙ぐんでいるお互いの顔を見ないようにして駐車場へ歩いていった。


 ☆向田邦子ベストエッセイ(向田和子編)より