さば 雲

過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

なわばりと順位

椎 名 郁也

競争 Ⅲ (仮題)


ずっと見ていると細部ばかり気になる。

バックがあいまいすぎないか。

顔の表情がすこし足りないかな。

全体にバランスよく描きこまれているか。

明暗の感じはどうだろう。

もうすこし描きこむ必要があるのかな。

 水彩+色鉛筆+ガッシュ


他のあらゆる動物にまして、人間はなわばりにうるさい。

大きいほうからいえば国家。国家間でのなわばり侵害があると、たちまち殺し合いがはじまる。つづいて、大小の地方自治体。お役所。企業の各部課から、各個人にいたるまで、すべてなわばりが決められている。よく官庁のなわばり根性を紙面で叩く新聞社にしてからが、内部では激しいなわばり争いをしている。社会部、政治部、経済部など、それぞれのよその部がちょっかいを出してこようものなら、たちまちケンカになる。


家のなわばり。隣の犬が庭に侵入してきたり、隣の家の木のは葉が落ちてきたりしただけでもいさかいがもちあがる。亭主の愛人に、〝このドロボーネコ!〞とつかみかかる女房は、愛情だけが問題なのではなく、なわばりを侵害されたくやしさが大いに働いているのである。家の中での、嫁姑の争いというのもなわばり争い。母親が机の抽出開けたといって憤慨する子供も、なわばりを侵害された怒りを表明しているのである。


これほどまで人間の本性に深く根ざしているなわばり根性は、やはり大切にしなければならない。なわばりなく、私有財産否定の社会的な実験がこれまでのところすべて失敗しているのも、このなわばり本性に反していたがためだろう。その意味では、共産主義も〝 新しき村 〞も同じ愚を犯している。また同じ意味で、性の解放による家族制度の崩壊も夢に終わるだろう。


このなわばり本性を逆用すれば、人の使い方も楽になる。どんな無能な人間でも、その人なりのなわばりを設定してやって、そのなわばりを尊重して侵害せず、その中では、主権をふるわせてやれば、大抵の人間は喜々として働くものである。人使いがうまいといわれる人間の人の使い方をよく見ると、例外なく、このなわばり本性をうまく利用している。


人間社会の順位制は、動物社会の中ではいちばん複雑な仕組みになっている。

人間は自意識過剰の動物で、いずれ劣らぬ肥大した自尊心をかかえている。したがって、集団の秩序を維持するために最も有効な方法は、その自尊心を厳密な順位づけの下に押しつぶしてしまうことではなく、複雑怪奇であいまいな順位制の中で、なるべく多くの自尊心を満足させてやることなのである。


なわばりを横の並列的な関係とすれば、順位は縦の上下関係である。

(┅中略┅)

動物はすべて腕力一本で順位づけをしてしまうが、人間は順位づけの種目をやたらと多くする。個人の意識の中では、しばしばその種目は非公認のものにまで拡大され、その結果、どんな人がどんな人と比べても、この点にかけては自分が上だという種目を持つことができるようになっている。


種目が多すぎるので、こんどはその種目の順位づけが問題になってくる。財力と知力ではどちらが上位か、感情の豊かさと統率力ではどうか、着るもののセンスと味覚のセンスではどうか、といった具合である。種目間の順位づけが、それぞれの人の価値体系を作る。人びとの間で、価値体系に関して常に議論が割れるのも当然である。


ともかく、こうして人びとはそれぞれ別の価値体系の中で、勝手な順位づけを楽しみ、それに加えて、適当ななわばりを自分の周囲に作って、自尊心を満足させて平和な暮らしを楽しむことができるわけである。


人間社会における順位制で、かなり普遍性のある種目は、所属組織における権力順位と、収入の高による財力順位である。この二種目で下位になったものは、自尊心を満足できず、コンプレックスを持ちやすい。


コンプレックスをのがれる手段は二つしかない。一つは死にもの狂いで、その順位戦に勝って上位にのぼること。もう一つは、この二種目が下位になるような価値体系を独自に (あるいは仲間と共同で) 作ってそれを信奉し、二種目にこだわる人をバカにすることである。どちらかといえば、後者のほうが楽でいいだろう。


★「新装版 思考の技術 エコロジー的発想のすすめ」立花 隆 著より

現象学って?

椎 名 郁也


若いころ、

何度か医者にかかった経験があって、

病気が完治しなかったことがある。

それから、だんだん医者ぎらいになった。

もういいと思う、年だし覚悟してるし。

病院に行ったりして、医者にかかってると、

自分の死ぬときが見えてくるのも嫌だし。

だから、できるだけ医者にはかかりたくない。

こんな言葉もあります。


「病を癒すのは神、料金をとるのは医者」

★ベンジャミン・フランクリン (1706~90) 科学者


   競争 Ⅱ (仮題)

   水彩 + 色鉛筆


私たちが世界をどのように経験し、意識のなかでそれがどのように現れてくるのかを徹底的に追究する学問である。現象学は20世紀哲学を大きく方向づけた潮流であり、心理学、社会学、文学、さらにはAI研究にまで影響を与えている。その核心には、「世界をありのままに、先入観を排して見つめる」という態度がある。


現象学の「現象」とは何か。それは、単に目に見えるものや出来事だけを指すのではない。例えば、私たちが「赤いリンゴ」を見るとき、そのリンゴは単なる色の集合や形のかたまりとして現れるのではなく、「食べられる果物」「手に取れる対象」「甘酸っぱい味を思い起こさせるもの」として意識に現れてくる。この「現れ方」こそが現象学の対象である。つまり、現象学は「意識にどのように現れるか」という次元で世界を記述しようとする試みである。


私たちが考えたり感じたりする時、その意識は必ず対象をもっている。怒りを感じるときは「誰かに対して」怒っているし、想像する時は「何かを」想像している。つまり、意識は決して空虚に漂っているものではなく、常に「対象に向かう性質」を持っている。この性質を分析することによって、私たちの経験の構造を解き明かせるとフッサールは考えた。


この現象学的な考え方はなぜ重要なのだろうか。一つの理由は、私たちの普段の世界の見方が、多くの「当たり前の前提」によって成り立っているからである。たとえば「外の世界が存在するのは当然だ」「他人の心は自分と同じようにあるはずだ」「時間は過去から未来へ流れるものだ」といった前提は、ふだん疑うことなく受け入れている。しかし現象学は、そうした前提を一度脇に置き、「私にとって世界がどのように現れているのか」をゼロから確かめ直す。こうすることで、哲学に確実な基盤を築こうとしたのだ。


自然科学はしばしば観測者を排除して「客観的事実」を追求しようとするが、現象学はむしろ「主観的な経験そのもの」を分析対象とする。これは決して独りよがりな主観主義ではなく、「人間が世界をどう経験しているか」を正面から扱うということだ。つまり、科学が「世界そのもの」を説明しようとするのに対して、現象学は「世界が人間にどう現れるか」を記述するのである。


私たちは普段、現実を「当然そうである」と見なして暮らしているが、その「当然」を一度括弧に入れ、「どう見えているのか」に注目することで、隠れていた前提や経験の構造が浮かび上がる。まるで、眼鏡をかけ直して世界を見直すようなものだ。現象学は、この「まなざしの転換」そのものを学問の中心に据えたのである。


現象学とは「意識に現れる現象を、先入観を排して記述する哲学」と言える。そこでは対象そのものよりも、「対象がどのように経験されるか」が問題となる。


☆「現象学って何 ? 」うし P 著 から


ニヒリズムを超越する真の勇気は、孤独を知り、理想を手放さない知性にこそ宿る。

  ★ 三木 清 (1897~1945) 哲学者 (獄中で病気にて死す)

歌えば短く嘆けば長い

椎 名 郁也

おしてた

候補が当選しました。

ありがとうございました。


競争  Ⅰ(仮題)リメイク


なによりも、

子供たちの溌剌とした笑顔と

躍動感が描けたらいいな、

と思って、再チャレンジです。

  水彩画


幸せは旅であり、目的地ではない

踊りなさい 誰も見ていないかのように

愛しなさい 一度も傷ついたことのないように

歌いなさい 誰も聴いていないかのように

生きなさい この地上が天国であるかのように

  Happiness is a journey, not a destination.

  Dance like no one is watching you.

  Love like you have never been hurt.

  Sing like no one is listening you.

  Live like it is heaven on earth

  *Alfred D'Souza


  ■アルフレッド・D・スーザ= オーストラリアの牧師


よりよく生きるということは、

自分中心に生きようとする傾向と闘うこと


孤独に耐える最良の道は、

「大好きな自分、愛する自分」と絶えず共にいること。


  ■渡辺和子(1927~2016)シスター


少しずつ時は過ぎてゆくが、

そのとき歌えば短く、そのとき嘆けば長い。

  Little by little the time goes by,

  short if you sing it, long if you sigh.

  ※ Anonymous


  ■ 不 明


私は賢明なる無関心よりも、愚かなる熱心さを選ぶ。

  I prefer the of enthusiasm to the indifference of wisdam.


       ■アナトール・フランス (1844~1924)フランスの作家

創造への扉

椎 名 郁也

映画「ファーゴ」を見た。

昔というほどじゃないけど、だいぶ前に見たものだ。

F ・マクドーマンドが主役だったのも忘れてた。

終わり近く、雪をほって現金を埋めるシーンと、

もう一人の犯人が相方をやり、粉砕機に押し込んで

血潮が飛んでたシーンは、見ながら思いだした。

はんぱな間とぼけた味が、このめちゃくちゃで

救いのないストーリーを和らげてくれていて、

最後の最後で妊婦の主人公がいうことに

ホッとさせられるのが救いだ。

埋めた金はどうなったんでしょう。


   廃車 (敗者?) たちよ (再掲載)

   水彩+ガッシュ


芸術にはルールがないということは、芸術家が自らルールを作らなければならないということだ。

この「自らルールを作る」という態度こそ、真の自由の証である。社会や制度が決めた基準に従うのではなく、自分の中に倫理を築く。挑発的な表現とは、他人を傷つけるためのものではなく、「自分の信念を賭ける行為」だ。

芸術家は、批判されることを恐れてはいけない。むしろ、批判こそが作品を現実と結びつける。もし誰からも反応がなければ、それはただの装飾にすぎない。


しかし、現代社会では、芸術の挑発がますます難しくなっている。SNS の時代、人々の感情が可視化され、あらゆる表現が即座に「炎上」する。過激なアートは「不謹慎」として叩かれ、無難な作品ばかりが生き残る。こうした風潮の中で、芸術は次第に「商品」や「宣伝」に回収されていく。挑発を失った芸術は、ただの娯楽に堕する。

だが、芸術の本質は「快」ではなく「問い」にある。美しいだけの表現は、人を眠らせる。痛みを伴う表現だけが人を目覚めさせる。


挑発には、もうひとつの意味がある。それは「社会の無意識を暴くこと」だ。芸術は、社会が隠している本音を露呈させる。たとえば、女性の身体を描く芸術が非難されるとき、その背後には「性を語ることへのタブー」がある。差別や暴力を描く作品が問題視されるとき、その社会には「不都合な現実を見たくない」という心理が潜んでいる。

挑発は、社会の良心を試す鏡でもある。


一方で、挑発を目的化すると、表現は空洞化する。単に「怒らせたい」「注目されたい」という欲望からの挑発は、芸術ではなく挑発の模倣だ。真の挑発は、必ず「何かを伝えたい」という誠実な動機から生まれる。デユシャンが小便器を展示したのは、「芸術とは何か?」という問いへの真摯な探求だった。彼の挑発は、笑いを誘いながらも、芸術史全体を変えた。


日本の現代アートにも、挑発の系譜はある。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言い、既成の美を破壊した。草間彌生は、水玉と反復のパターンで「無限と狂気」を描き出した。彼女の作品は一見かわいらしいが、その背景には精神の深い闇がある。彼女の挑発は「狂気を晒す勇気」であり、それが世界中の共感を呼んだ。挑発とは、必ずしも攻撃ではない。自分の弱さや恐怖をさらけ出すことも、強烈な挑発になりうるのだ。


芸術にはルールはあるのかーーこの問いに対して、明確な答えはない。しかし、もしひとつだけ原則を挙げるなら、それは「人間を否定しないこと」だろう。どんなに過激な作品でも、そこに人間への洞察と共感があれば、それは芸術として成立する。逆に、人間を嘲り、軽蔑し、無化する表現は、自由の仮面をかぶった暴力に過ぎない。芸術の挑発は人間を壊すためでなく、人間を見つめ直すためにある。


芸術とは「自由の実験場」である。政治や宗教が決めたルールの外で人間の限界を試す場所。そこでは失敗も許される。むしろ、失敗の中からしか新しい価値は生まれない。挑発がない社会は安全だが退屈だ。挑発のある社会は危険だが、生きている。どちらを選ぶかは、私たちの成熟にかかっている。


芸術にルールがあるとすれば、それは「つねにルールを壊し続けること」だ。壊すことでしか、人間は自由を感じられない。挑発とは、破壊ではなく創造への扉である。誰かを怒らせることを恐れず、しかし、誠実に世界を問い続けるーーその勇気こそが、アートをアートたらしめる魂なのだ。


 ◆「表現の自由ってなに?」うしP著より

可能性は無限

椎 名 郁也

 群れるウジ虫たちよ (再掲載) 

 水彩画+ 色鉛筆


掃除機を手放しら掃除がラクになり、洗濯機を手放したら洗濯がラクになり、炊飯器や電子レンジやついでに冷蔵庫もなくしたら炊事が飛躍的にラクになったのだ。


食事はカセットコンロ一個で塩と醤油と味噌だけで全調理を行うという、連日ソロキャンプみたいな生活の始まりである。


家事とは自分で自分の機嫌を取ること。自分を大切にすること。世界中の誰も自分を認めてくれなくったて、自分だけは自分を認めることができるのだと確認することだ。


あんなに人生をかけて夢中になりまくってきたグルメだのショッピングだのという「娯楽」が急に「どうでも良いこと」になってしまった。


掃除道具を手放し、服を手放し、調理道具や調味料を手放すことで、自分の暮らしがちゃんと自分の手に負えるようになった。その結果、何はなくともきれいな部屋で、何はなくともおしゃれを楽しみ、何はなくとも美味しいものを食べる力、つまりは何はなくとも幸せに満足して暮らすことのできる力が、全てすでに「自分の中」に備わっているのだと心の底から気づくことができた。

   (中略)

モノが与えてくれるかもしれない可能性を捨てることで、自分の中の新たな可能性をほりおこす。それは生まれ変わるような体験だ。どん詰まりのように見えていた世界に確実に風穴をあけ、自分の価値を再発見する行為だ。

少なくとも私はそのことを経て、自分の人生を迷いなく歩み始めることができた。荷物を減らし、身軽になってどこまでも歩んでいく。

モノは有限だが自分の可能性は無限である。


経済成長の果てに我らが手に入れた「便利な暮らし」は、裏を返せば「孤独そのものの暮らし」なのだった。


☆「家事か地獄か 最後まですくっと生き抜く唯一の選択」稲垣えみ子著から


私はこの人のように極端な縮小をしてないが少し似てる。

掃除機、洗濯機、電子レンジ、TV はないけど、

2合の炊飯器と45L冷蔵庫がある。

納豆、卵、肉を保存したいし、冷えた発泡酒が飲みたい。

肉は鶏肉だけにした。甘いものは極力食べない。

外食はしないけど、選挙活動中はやむを得ない。

洗濯は毎日おけで手洗い。運動にもなるし。

クーラーは設置されてるけど一度も使ってない。

2階だから開けたまま、小型扇風機で何とかなる。

たまに、蚊が入って食われるけど、共存だから。

ガス契約してたけど、使わずにいたら解除された。

夏はシャワーで大丈夫だけど、冬シャワーは冷たい。

チョッときついけど、たまにはしょうがない。

こんな生活も5年すぎ、もう慣れたようだ。

椎名。