さば 雲

過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

思ったことは思ったときにやる

椎 名 郁也


疲れてる時の暇つぶしにはミステリーが最高。

むかし読んだ、宮部みゆき「名もなき毒」と

「昨日がなければ┅」を読み直していたら、

解説でマイケル・Z ・リューイン「沈黙のセールスマン」

との類似性を指摘してたので、早速とりよせた。

そしたら、これが面白くてどんどん読めてとまらない。

一定のテンポでたるみなく進むストーリーと、

主人公のジョークがおもしろい。しかも、

ジョークに奥行きがあって、考えさせられてしまう。


アッシュたちょ( 修正版 Ⅰ )

  水彩+ガッシュ


やろうと思ったことは、思ったときにやるべきだ。でないと、余計なことを言われ、邪魔され、いろいろなことがあるうちに、やる気も弱り、踏み切れなくなる。すると、「やろう」が「やらねば」に変わる。「これさえすればいいのだから」と一息つくと、一息ついて腰が上がらなくなってしまうのだ。 

ーー『ハムレット』第四幕第七場

That we would do, We should do when we would, for this "would" changes And hath abatements and delays as many As there are tongues, are hands, are accidents. And then this "should" is like a spendthrift sigh That hurts by easing.

ーー Hamlet, Act 4 Scene 7

クローディアスがレアーティーズに言う台詞。


誰でも、「やりたいこと」「やるつもりのこと」をそのまま放置してしまうことがよくある。ぼんやりと「やりたいなあ」と思う程度のことなら忘れてもかまわないのかもしれないが、一度強く「やろう」と決めたことができないでいると、「やらねば」という焦燥感に変わってしまう。


『ハムレット』という劇は、行動への意志はあるのだが、思考に邪魔されて行動までなかなか至れない過程を表現した作品だ。

この劇では「行動の三段階」――思いついて、そうしようと決める第一段階、どのように実行したらよいかイメージする第二段階、決行する第三段階――が常に問題とされている。

決意は赤い血潮の色なのだが、思考という青白い色に染まると、その勢いが失われて行動の第三段階にまで至らない。

「生きるべきか死ぬべきか」で始まる第四独白の締めくくりは、「こうして、物思う心は、我々をみな臆病にしてしまう。

こうして、決意本来の色合いは、青ざめた思考の色に染まり、崇高で偉大なる企ても、色褪せて、流れがそれて、行動という名前を失うのだ」となっている。


熱い思いを失っては、行動できない。


★「心を支えるシェイクスピアの言葉 日本語訳と原文で味わう人生に効く110の言葉」から


「あんな小さなロウソクの光が なんて遠くまで届くことでしょう!

よい行いも、悪い世の中を あんなふうに照らすのね。」

――『ヴェニスの商人』第五幕第一場


「明けない夜はない。」

――『マクベス』第四幕第三場

なぜ権威主義に引かれるのか

椎 名 郁也

またすぐ市議選が来月4日にあり、

現職市議6期目に挑戦を応援してますが、

おされぎみです。気は抜けませんが、

今度はなんとか┅と思います。


  孔雀と蝶 Ⅳ

ある本によると、むかし蝶は儚いものの象徴として描かれた、とあり。

   水彩+色鉛筆+ガッシュ  25x21 cm


   では、なぜ人は権威主義に引かれるのか。その理由の一つは、不安である。社会が不安定なとき、人は自由より安心を求めやすい。景気が悪い、犯罪が増えたと感じる、戦争や災害の気配がある、価値観がばらばらで先が見えない。そうした状況では、議論や調整はまだるっこしく見える。そのとき、強い指導者が現れて、私に任せろ、秩序を取り戻す、敵を排除する、と語ると、多くの人がそこに救いを見る。権威主義は、恐怖や混乱の中で魅力を増す。自由は責任を伴うが、服従は判断の重さを軽くしてくれるからである。


   ここで重要なのは、権威主義はいつも露骨な暴力の姿で現れるわけではないという点である。むしろ最初は、常識、礼儀、伝統、治安、安心といった、もっともらしい言葉を通じて広がることが多い。もちろん伝統や礼儀そのものが悪いわけではない。問題は、それらが問い直しを許さない形で使われるときである。伝統だから従え、非常時だから黙れ、みんなが不安になるから異論を出すな、といった言い方が増えると、社会は表面上は静かでも、内側では思考の自由を失っていく。権威主義は、しばしば善意の顔をして近づいてくる。


   この点で、権威主義は全体主義とも区別される。全体主義は、国家が人々の生活全体にまで深く入り込み、思想や文化や私生活まで統制しようとする傾向を持つ。それに比べると、権威主義はそこまで全面的ではない場合もある。政治への口出しさえしなければ、ある程度は私的生活を許す体制もある。しかし、だから安全だとは言えない。政治への関心を奪い、異議申し立てを抑え、秩序への服従を習慣にするだけでも、人はかなり深く支配される。静かであることと自由であることは同じではない。


   また、権威主義は上から押しつけられるだけではなく、下から支えられることも多い。人々が自発的に強い支配を求め、異なる意見を持つ者を嫌い、少数者を疑い、単純で力強い言葉に安心するとき、権威主義は根を張る。そこでは支配者だけを批判しても足りない。従いたいという欲望、考えなくてすむ状態への誘惑、複雑な現実を敵と味方に分けてしまいたい気分もまた、権威主義の一部だからである。権威主義は、外から来る圧力であると同時に、人間の内側にある弱さとも結びついている。


   だから権威主義を考えることは、ただ悪い政治を非難することでは終わらない。私たちは秩序を必要としているし、社会には一定の権威も必要である。問題は、どこで必要な権威が権威主義へ変わるのかという線引きである。命令に理由が示されているか。異議を述べる余地があるか。少数者の権利が守られているか。上に立つ者が批判にさらされているか。こうした点が失われるとき、権威は支えではなく拘束になる。権威主義とは、秩序を守ろうとするあまり、自由に耐える力を失ってしまった社会の傾きだと言える。


   権威主義という言葉は、しばしば政治学や社会学の専門用語のように見える。だが本当は、もっと身近なところにある。家庭のしつけ、学校の空気、職場の上下関係、世論の圧力、危機のときに強まる同調。そうした場面で、考えることより従うことが重くなり、正しさより一体感が優先されるとき、権威主義は姿を見せる。この言葉を学ぶ意味は、遠い国の独裁者を批判するためだけにあるのではない。私たち自身が、安心のためにどこまで自由を手放そうとしているのかを見抜くためにあるのである。


   ◆「権威主義ってなに?」うしp 著より

再掲載

椎 名 郁也

ロクさんへ、

以前アップした中に (ムンク風でないけど)

叫びのようなものはないか見てみたら、

そうしたら、唯一こんなのがあったので、

見てる人がいるかも知れないけど、

また、掲載してみました。


最近読んだ本に「表現は挑発すること」だ、と書いてあった。

そんな風に考えたことなかったし、そんな作品創ったことない。

何をすれば挑発なのか、どうすれば挑発なのか、

これから、少しそんなこと考えて創って行こうと思います。

そうだ、「アートは爆発だ」と言ってた人がいましたね。


孔雀の絵は、まだⅣに続きます。


 絶 叫(イメージ)2021年12月20日に発表したもの

 油絵具 + 蠟  F4 (リメイク)


雲の向こうは、いつも青空。

T here is always light behind the clouds.

☆ ルイーザ・メイ・オルコット

「若草物語」の小説家であり、貧しくも思考の中に生き、様々な作品を生みだした。

厳しい環境の中でも、心豊かに生き抜いたオルコットは、思いを巡らせれば、

つらい中にも楽しい日々があることを知っていたのでしょう┅ 。(ウェブより)


たとえ教養があり、確かな判断力があり、

考えが理知的であっても、心を打ち込んで

思考し行動することを知らないうちは、

隠れた才能は、誰にもわからない。

本人ですら知らないのだ。

 ☆ デール・カーネギー


「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。

  ☆ レイチェル・カーソン

不服従

椎 名 郁也

流れ者の私はここに親戚知人が少ないから、

ビラ配布や毎日のぼり持ちアピールする事、

できるのはそれぐらいだ。どっちに転ぶかわからない。

けど、相手陣営優勢のニュースが流れてきて、

ほんとうにイヤな感じ、イヤな世の中。それでも、

投票 (13日)結果がわかるまでは落ちつかない。


  クジャク(仮題)Ⅲ

  水彩+色鉛筆+ガッシュ  25x21 cm


きたるべき(あるいはすでに到来した)戦争の時代を生きる方法とは、断じて強者への服従ではありえない。

(中略)

暗愚に満ちたこの時代の流れに唯々諾々と従うのは、おそらく、非人間的な組織犯罪に等しいのだ。戦争の時代には大いに反逆するにしくはない。(「あとがき」より)


 ☆「永遠の不服従のために」辺見庸 (著)

表現の自由って?

椎 名 郁也


台風は暴風域を抜け、風弱まって、もう大丈夫。

明日の知事選告示日は延期になるのか。

告示用看板は撤去しちゃってるから、

また取りつけたりとたいへんそう。

それまでポスター貼りしなくてすみそうだけど。

どうなるか明日になってみないとわからないとのこと。

ほんとに、誰が決めてんだか。


   クジャク(仮題)Ⅱ

    水彩+ 25x21 cm


表現の自由とは、単に“発言の自由”ではなく、人間が人間であるための根本的な行為――「内なる世界を外へ出す権利」なのだ。


たとえば、誰かが怒っているとき、泣いているとき、恋をしているとき。その感情は、心の中に閉じ込めておくこともできる。しかし多くの場合、人は言葉にしたり、絵に描いたり、音にしたりして外へ出す。そこには「伝えたい」「わかってほしい」という欲求がある。


表現とは、心の中の“かたちのないもの”を、何らかの形で世界へ翻訳する営みだ。

この翻訳行為は、人間だけがもつ特別な能力でもある。動物も鳴き声や動作で意思を伝えるが、それは直接的であり、象徴を介した「創造的表現」とは異なる。人間は、言葉や芸術を通じて、現実にない世界を描き出すことができる。


つまり、表現とは「現実の外にもうひとつの世界を作ること」でもある。そこには創造の喜びがあり、同時に社会との摩擦も生まれる。


 なぜなら、表現には「誰かを刺激する力」があるからだ。自分にとってはただの感情の吐露でも、他人にとっては攻撃や侮辱と感じられることがある。芸術や思想の歴史を振り返れば、常に「何をどこまで表現していいのか」という境界線が議論されてきた。宗教画の描き方、政治的な風刺、性や暴力の描写――そのどれもが時代によって許容されたり、禁止されたりしてきた。


では、なぜ人間はそれでも「表現の自由」を求め続けるのだろうか? それは、表現の自由が「思考の自由」とつながっているからである。考えることと表現することは、実は分離できない。言葉にしないと、考えは形にならない。絵に描かないと、イメージは霧のように消えてしまう。もし人が「考えることは自由だが、表現してはいけない」と言われたら、やがて考えることそのものをやめてしまうだろう。


哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、『自由論』の中でこう述べた。「人が自由に意見を述べられない社会では、真理もまた死ぬ」と。


つまり、私たちが自分の意見を言えるということは、間違う自由も持っているということだ。誤りを恐れて沈黙する社会では、真理に近づくこともできない。


表現の自由とは、単なる「勝手にしゃべる権利」ではなく、「間違いを通じて学ぶ権利」でもあるのだ。 また、表現の自由は「社会と個人のあいだの緊張関係」でもある。


社会は秩序を守るために、一定のルールを設ける。暴力的な扇動やデマ、名誉を傷つける発言などは制限されることがある。しかし、もしそのルールが過度に強くなれば、人は自分の意見を出せなくなる。


国家や企業、メディアが「この考えは危険だ」と判断し、排除を始めると、社会はゆっくりと息苦しくなる。


表現の自由がある社会とは、逆にいえば「異なる考えを許す余裕のある社会」なのだ。


たとえば、アメリカ合衆国憲法の第一修正は「言論・出版・宗教の自由」を明記している。これは世界中の民主主義のモデルになったが、その背景には「政府が市民の考えを検閲することへの恐れ」がある。


権力をもつ者は、常に「都合の悪い意見」を封じようとする。


だからこそ、表現の自由は“個人の武器”であり、民主主義の根幹でもある。

日本国憲法21条も、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。


しかし現実には、社会的圧力や空気が、法律以上に人の口を塞ぐことがある。法律があっても、空気がそれを許さないなら、実際の自由は存在しない。


つまり、表現の自由とは「制度上の問題」であると同時に、「文化の成熟度を測る物差し」でもあるのだ。


◆「表現の自由ってなに?」うしP 著より