さば 雲

友がひとりまた一人消えて思い出だけ残る。過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

権 威

 顔

 油絵 4号 1981年作


「どうせ盗むなら、人間の一番大切なものを盗んでやろうと思ったんです。で、いろいろ盗みをしているうちに、人間がいちばん大切にしているものがわかりましたの」
「ほう、そりゃなにかね?」
「権威です。人を思いのままに動かすことのできる、あるもの。ある人にとっては八の字ヒゲ。ある人にとっては自分はこれだけのことをしたという過去の栄光、お医者さんの白衣、勲章、菊のバッジ、文学賞……人はそういうものがすきなんです。そういうものをたくさん手に入れて、その威光で、人を思いのままに動かそうとしているのね。お金も出世もホコリも、努力もよい行いも、なにもかもみんな、権威、力をもつための手段に過ぎないんです」(中略)

「でもねェ、ブン、もしそうだとしても、権威をもつことがなぜいかん?」
「人間の目がくもりますもの。権威をもつと、人は、愛や、優しさや、正しいことが何かを、忘れてしまうんです。そして、いったん、権威を手に入れてしまうと、それを守るために、どんなハレンチなことでも平気でやってしまうのだわ」


 ◆井上ひさし著「ブンとフン」より

トットちゃん

 萎れた花

 鉛筆  1986年作


 「楽しいこと、不思議なこと、ワクワクすること」にあふれていた小学校生活。でも3年生の頃には戦争で食べものがなくなり、愛犬は軍用犬にするため徴発されていきました。「寒いし、眠いし、おなかがすいた」が口癖だったと言います。「一日の食料は大豆15粒だけ。本当にそれしかないんです。朝、母から『お水をいっぱい飲むのよ』と煎った大豆を渡されました」
 やがて大豆も配給されなくなり、味も栄養もない海藻麵ばかりになりました。「栄養失調で体中におできができ、何本も爪の間が膿んで、ズキンズキン。本当に痛かった」
 泣いて歩いていると、警官に「おい、こら」と呼ばれました。
「『おまえは恥ずかしくないのか。戦地の兵隊さんのことを考えてみろ』って。戦争って泣いてもいけないだと思いました。
 今も悲しくなる思い出があります。学校の最寄り駅。「バンザイ!」と出征兵士を見送る人に出会いました。日の丸を振ると、お駄賃にスルメの足を一本くれました。
 「口に入れたら柔らかくなってすごくおいしい。それで私、『バンザイと言うとスルメがもらえる!』と思っちゃたんです。それからはバンザイの声を聞くと、走って行って旗を振りました」
 おとなになり、そのことを悔やみました。 
 「もし兵隊さんが旗を振る私を見て、『あの子のためにもたたかおう』と自分に言い聞かせて亡くなったのなら、子供の私にも戦争責任はあるんじゃないかって」……


 昨年末の「徹子の部屋」でタモリさんが今年を「新しい戦前」になるのではと言いました。「その予想が、これからもずっと外れてほしい」と。
 「戦争は気づかないうちに、あっという間に始まります。今も気をつけていないと、ある日突然…ということがある。今テレビでも感じますが、みんなが自由にものを言えなくなるのが怖い。そんなの嫌でしょ、絶対に」


 ☆黒柳徹子「続 窓際のトットちゃん」発売インタビュー
 ※某新聞記事より

母の入院

 萎れた花

 鉛筆  1986年作


 半年ほど前、母の心臓の調子よくないことがあった。発作性頻脈といって、一時的に脈拍が二百を越すのである。直接生命に別状ないというものの、本人もまわりも不安になり検査入院ということになった。この大晦日で満七十歳になる母は息災な人で、お産以外は寝込んだことがない。入院は生まれて初めての体験である。一カ月ほどで退院出来るから心配ないといってきかせたのだが、死出の旅路にでかける覚悟で出かけたらしかった。
 入院して二,三日は、まるでお祭り騒ぎであった。夜になると十円玉のありったけを握って廊下の公衆電話から今日一日の報告をするのである。
 三度三度の食事の心配をしないで暮らすのがいかに極楽であるか。献立がいかに老人の好みと栄養を考えて作られているか。看護婦さんがいかに行き届いてやさしいか。テレビのレポーターも顔負けの生き生きとした報告であった。無理をして自分を励ましているところがあった。
 三日目あたりから、報告は急激に威勢が悪く、時間も短くなってきた。四日目からはその電話もなくなった。
 追い込みにかかっていた仕事に区切りをつけ、私が一週間目に見舞った時、母はひとまわりも小さくなった顔で、ベットに座っていた。この日は、よそにかたづいている妹もまじえて姉弟四人の顔が揃ったのだが、辛いのは帰りぎわであった。
 私が弟の腕時計に目を走らせ、
「ではそろそろ」
いおうかなとためらっていると、一瞬早く母が先手を打つのである。
「さあ、お母さんも横にならなくちゃ」
 晴れやかな声でいうと思い切りよく立ち上がり、お見舞いにもらった花や果物の分配を始める。押し問答の末、結局私達は持ってきた見舞いの包みより大きい戦利品を持たされて追っ払われるのである。 
「見舞いの来ない患者もいるのに、こうやってぞろぞろ来られたんじゃお母さんきまりが悪いから当分はこないでおくれ」
 と演説をしながら、一番小さな母が四人の先頭に立って廊下を歩いてゆく。
「本当にもうこないでくれよ」
 くどいほど念を押しエレベーターに私達を押し込むと、ドアのしまりまぎわに、
「有難うございました」
今までのぞんざいな口調とは別人のように改まって、デパートの一階にいるエレベーターガールさながらの深々としたお辞儀をするのである。
 ストレッチャーをのせる病院の大型エレベーターは両方からドアがしまる。寝巻の上に妹の手編みの挽茶色の肩掛けをかけて、白くなった頭を下げる母の姿は、更にもう一回り小さく見えた。
 四人の姉弟は黙って七階から一階までおりていった。弟がくぐもった声で、ポツンと言った。
「たまンねえな」
末の妹が、
「いつもこうなのよ」
 という。妹は毎日世話に通い、弟は三日に一度ずつのぞいているが、母は必ずエレベーターまで送ってきて、こうやって頭を下げる。しかも弟にいわせると、「人数によって角度が違う」というのである。
「今日は全員揃っていたから一番丁寧だったよ」
お母さんらしいやと私達は大笑いしながら、涙ぐんでいるお互いの顔を見ないようにして駐車場へ歩いていった。


 ☆向田邦子ベストエッセイ(向田和子編)より

200ドルの命

  蟹 Ⅱ

  色鉛筆+ 20ⅹ 23 cm 2018年作


 3歳の時、米軍嘉手納基地で働いていた父が、基地内で車に轢かれて亡くなりました。保証金はたったの200ドルでした。
「母は『父ちゃんの命はたった200ドルだったよ』とよく言っていました。いまでも米兵による事件はよく起きるのに、基地に逃げ込めば手を出せない。孫の時代になっても、沖縄がこのままでいいのかと思います」


 国は、辺野古の米軍進基地建設を認めない沖縄県を提訴し「代執行」しようとしています。
「国が勝手にやるなどありえない。これでは植民地です。県民はみんな怒ってますよ。辺野古は軟弱地盤で、そもそも基地など造れない。そこに無駄なお金を2兆~3兆円もかけようとしている。それは国民の税金だとわかってほしい。困っている人が助けを求めても、簡単にはお金を出さないのに、防衛費のためには莫大なお金を使う。苦労して働いて納めたみんなの税金が無駄にされているんです。腹が立つんじゃないですか」


 ◆古謝美佐子(1954~ )沖縄民謡歌手
  ※某新聞記事から