さば 雲

友がひとりまた一人消えて思い出だけ残る。過ぎてしまえばこの世は残り少なく、今頃ひとりじたばたしている 。

文字のない葉書

 蟹 Ⅰ 

 色鉛筆+  2012年作


 終戦の年の四月、小学校一年生の末の妹が甲府に学童疎開することになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開していたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらの目に逢い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札をつけ、父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛の宛名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい」
 と言ってきかせた。妹はまだ字が書けなかった。
 宛名だけ書かれた嵩だかな葉書の束をリュックサックに入れ、雑炊用のドンブリを抱かえて、妹は遠足にでもゆくようにはしゃいで出かけて行った。
 一週間ほどで、初めての葉書が着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添っていった人のはなしでは、地元婦人会が赤飯やボタ餅を振舞って歓迎して下さったとかで、南瓜の茎まで食べていた東京に較べれば大マルに違いなかった。
 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは遂にバツに変わった。その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に逢いに行った。
 下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干しの種子をしゃぶっていたが、姉の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうな。
 間もなくバツの葉書もこなくなった。三月目に母が迎えに行った時、百日咳を患っていた妹は、虱だらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
 妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園の南瓜を全部収穫した。小さいのに手をつけると怒る父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、一抱えもある大物から手のひらにのるウラナリまで、二十数個の南瓜を一列に客間にならべた。これ位しか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰って来たよ!」
 と叫んだ。茶の間に座っていた父は、裸足でおもてへ飛び出した。防火用水桶の前で、痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを始めて見た。
 あれから三十一年。父は亡くなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のない葉書は、誰がどこに仕舞ったのかそれとも失なったのか、私は一度も見ていない。


  ☆向田邦子ベストエッセイ(向田和子編)より